作品というフレームを通じてキャラクターを眺めているとき、そのキャラクターは絶対に舞台の上にいて、舞台外のただの鑑賞者である自分とは決定的に断絶した立場にある(彼女たちは作品のキャラクターである以上、『舞台少女』であることが運命付けられており、我々はキリンである)
鑑賞者である儂は舞台を通じてキャラの断片的で表面的な記号を知ることはできるが、キャラクターの生身自体については直接知ることができない キャラクターを直接知るためには、自分が舞台の上に立って、同じ立場に立って実際に触れるしか方法がない
これが自分と同じ世界の人間ならともかく、自分と異なるフィクションのノベルゲーム作品であればそのキャラクターと同じ舞台に立つことは物理的に不可能なわけで、そこをどうするか
プレイヤーに、どうやってキャラクターと同じ舞台に立ったと幻想させるかがノベルゲームの究極的な命題だと勝手に思っている
そういうことをホワイトアルバム2の千晶√をやってからぐるぐると考えている いやずっと前から考えていることではあるけど
学園アイドルマスターをプレイしている
ウマ娘をものすごく意識してる感じがしてすごかった
とにかくテンポよくプレイできるし、セリフが洗練されていて一瞬で読めるし、キャラがどういうキャラなのかもスッと理解できる 集会プレイに対するシナリオレベルでの理由づけもちゃんとされていて良かった
あと視点主人公であるプロデューサが翻訳っぽい硬い口調で喋っててすごかった
この視点主人公であるプロデューサーは透明な主人公の系譜を継いでいる 自分の来歴とか、価値観とか、辿ってきた物語とかをプレイヤーに一切関知させない、絶対にプレイヤーのノイズにさせないという作り手側の気概を感じる もちろん恋愛とか性欲とかそういう要素も完全に(?)排除されている
コンシューマのノベルゲームと、ブルアカとかを筆頭にしたニュータイプソシャゲの一番の違いはここにあるよな ブルアカをコンシューマノベルゲーにしようと思ったら「先生」は絶対に視点主人公にはならない ノベルゲームは主人公とキャラクターの物語を語るシステムだから、独自の物語を持たない先生を主人公にする意味がない
何が言いたいかというと、生徒を主人公にしたブルアカのノベルゲームがやりたいです