otogadekai
話題の作曲AIで遊んでた 楽C!
生成系AIでいろいろ生成して遊んでいると、自分の好きの価値観が一気に可視化されたような感じがして面白い
しばらくいじっていると自分好みの曲ばかり作れるようになる
適当にジャンルを設定してランダムに曲を作って、自分の感性にあう生成物があればその設定を微調整してもっかい生成、みたいな操作を繰り返してるだけで自分好みのものだけつくれるようになる
生成した自分好みの曲をくりかえし聴いていたら、ふとこの曲を思い出した ちょっと雰囲気が似てるかも
子供の頃、親が車の運転中くりかえし流し続けていた曲 すっかり忘れてた
こういう昔に何気なく聴いてた曲が今の儂の価値観に影響を与えているんじゃなあ
儂はブルアカを現実世界とキャラクターの関係性の寓意として読んでいる節がある
前はシナリオをメタだなーと思いながら読んでたけどそこまでメタではないかもと思い始めてきた
儂が勝手にそう読んでるだけで、別に作品やキャラクターはプレイヤーに直接語りかけているわけではないため(こういうのをパラフィクションていうのか?全然違いそう)
作品が虚構であることを明示するメタではなくて、作品が虚構であることを前提としたうえでその虚構性を作品の中に取り入れている
こういうのがソシャゲが普及してから増えているような気がする

ブルアカでは、キャラクター存在の解釈として〇〇〇〇〇主義的な立場が取られているようにみえる
つまるところキャラクターは作者によって創造される存在ではなく**誰かによって発見される存在**で、そしてそれは**現実世界に実在する(位置を持つ)対象ではなく**、**時間的な推移をもたない永遠の存在**としてみなされている
そして、キャラクターを**特定の性質の集合に相関する存在者**と解釈する
集合に含まれない、未規定の性質が補完された二次創作の存在も同一のキャラクターとみなされ、だからキャラクターは無数に存在する



デカグラマトン編のこの台詞、ブルアカのキャラクター存在に対する思想が端的に表れていてオッとなった

ブルアカの透明性について考えていたら一日が終わった
ブルアカってなんかすごく透明なものが積み重なって構成されているように見える
存在するけど、誰も意識しないものがそこにある、ということを意識せずにはいられない
必要性の無さ故に描写されることのなかったものの存在感の強さ そういう透明なもののパワーに儂は惹き付けられている
そんなの別にブルアカに限った話ではない、っていうのはそれはそうで
たとえば東方とか
東方の、非日常性を日常によって覆い隠すような物語の組み立て方は、どこかブルアカに通じるところがある
東方の場合は、透明な世界観というより、作者によって恣意的に隠されている、というイメージがあるけれど
儂が好きな作品って全部そんな感じだ
どんな作品であれ、その作品に横たわっている見えないものの存在(幻覚)を感じられるようになってからがオタクの始まりなのかもしれない
ツイッターを眺めるのが辞められねえ
この時間をもっと他の事に費やしていれば……と思うこともあるけど、面白くてやめられず続けている
誰かのツイートに興味があるというよりは、断片的なツイートを通じて、知らん人間のイメージが自分の中で徐々に立ち上がってくる感じが面白くてやり続けている
その人がいまどういう環境に生きていて、どんな世界に夢中になっているかをツイートから想像するのは面白い
タイムラインを眺めるだけで生きていきたい
萌えイラストと誰かの人生の断片を見てるだけでよくて、それを眺める視点以外の自分の全てを放棄したい 捨てさせてくれ プリーズ

ヴァルキューレのスピンオフが見たい!
ブルアカのアニメ、今からでもいいんで生活安全局のキリノが主人公ってことにしませんか?
漫画でも良いけど 漫画の方が良いかも
というか別衣装を実装してくれ ヴァルキューレの生徒がだめならヴェリタスの生徒でも良いよ
青春ブタ野郎シリーズ
Audible版を聴いていたときのイメージとアニメ版のイメージがけっこう違っていてビビった
まず主人公の見た目がイメージと違い過ぎた
Audible版だと声が高いから、落ち着いてるけど生意気な雰囲気の少年というイメージを持っていたが、アニメ版だと声が低くて見た目も完全に成長済みの青年って感じだった 涼宮ハルヒの小泉とキョンを足して2で割ったみたいな見た目してんのお前!?って思ったぜ
あとやっぱりアニメ版は客観的になる感じがあってあまり真剣に観れないかも
小説は読んでいる自分の経験の中にしか存在しないけど、アニメは映像作品として自分の外に存在している そういう違いがある
そも一人称小説では、主人公の外見のイメージをそこまで具体的にする必要が無かった
それは、小説の読み手自身が主人公であるかのように読み進めるからではなく、主人公の経験の中にあるイメージを読み手の脳内でコピーして展開しているから不必要なのじゃ
あくまで主人公の主観的イメージを小説で覗いているわけで、起こっている出来事を映像として客観的に眺めるアニメとはやっぱりいろいろと性質が違うことが多い

何もしていない
何もしていなさに拍車がかかっている ずっと今が何もしていなさのピークのような気がしてるけど間違いなく気のせいなんだろうな だって何もしていないわけではないから
何かをしながら何もしていなさを感じ続けている 何かしなければ、と思い続けて何かをしつつ、何かって何だよと思いながら何かを探し続けている 自分を客観視するとマジでむかつくので客観視しないように努めている 何もすんなよ 何もしてないが?