化物語をAudibleで聴いている
最初の方の短編をいくつか聴いた後の感想は **ギャルゲーだ!** だった
儂は触れる作品すべてに対してそれがギャルゲー的かギャルゲー的でないか判断をしている そしてこの作品は儂のギャルゲーセンサーにビンビンに引っかかった
ともかく、最初のほう(シリーズ一作目が化物語で、それが上中下に分かれたやつのうちの上と中)を聴いた現時点での感想はそんな感じである
どこにギャルゲー的な要素を感じたか まずキャラクターについては言わずもがな
みんなやたらと弁が立ち、教養に溢れていて、聡明である
それを前提として、その上で個々のキャラクターのキャラ付けがしっかりとなされている それはそれぞれのキャラクターを簡潔な言葉で説明できるくらいには露骨に強烈になされている *1
まあこれはキャラクター主導の作品の条件みたいなものなので特にいうことはないが
決定的なのは作品のシナリオの構造じゃろう
この作品は短編集になっていて、ひとつの短編につき一人のキャラクターと、そのキャラクターの存在自体に深く結びついた「怪異」がフィーチャされている
この意図せずキャラクターに結びついてしまった「怪異」から、キャラクター(ギャル)が解放される様を、主人公(男子高校生)がサポートしながら見守る、というのが基本的な話の大枠になっている
大枠だけを見れば、これはそのままギャルゲーのシナリオに適用できそうな話である
ギャルゲーの王道(と儂が思い込んでいる)シナリオは、大雑把に言えば「キャラクターのアイデンティティに根付いた困難の解決を、主人公が後押しする(その自然な流れで恋愛的なイベントが発生する)話」と説明できる
この作品では、そういったギャルゲーの王道シナリオが持つような枠組みを、「怪異」というシステムによってウマーく利用している そういう風に見える
こうして書いてみると、ギャルゲー的っていうのはただ単に課題解決型のシナリオ持つ、かつキャラクター主導の作品というだけで、わざわざギャルゲーという名を出す程の理由があるわけではないように思えてきた
でも儂が思うギャルゲーの本質ってこの二つだと思ってるからまさにそうとしか言いようがない
ギャルゲー的という呼び方がアレか なんかバッチリ来る呼称は無いもんかね
ともかくかなり面白かったので読んでいきたい Audibleにシリーズ作品全部ありそうなので全部聴いて、アニメも観てみよう
*1:どうでも良いけどこの作品がギャルゲーだったら儂は最初に八九寺真宵√を選択してるだろうな
しばらく毎日日記を書こうかな
日記というと一日の中で物理的にやったことを記録するというイメージがあって、そのイメージに従うと何を書けばいいのかわからなくなる 基本的に記録するようなことを何もしていないから
何もしていなくても頭の中では思考もどきのようなものが絶えず生まれたりうごめいたりしていて、そういう思考もどきが儂の中にあったという痕跡を、忘れないうちに記録しておきたい、と常々思っているのだけれど
いざパソコンやスマホを前に文章を書こうと集中すると、頭の中にあったモヤっとした思考の断片は文章にならずにどこかに雲散していってしまう
どうやら儂は、頭に浮かんだことをすぐに文章にしないとその実感を忘れてしまう傾向があり、浮かんだ思考の断片を後で文章にまとめる、という器用な事はうまくできないタイプの人間みたいじゃ
思考を文章にまとめるのができないということではなく、そもそも最初からうまく思考ができてないということもあり得る 両方当てはまるかもしれない まあなんにせよ文章が出力できないのは同じなんじゃが
なんか今はめちゃ下手でもいいからやろかな、という気分なのでやってみる
駄目だ、その場で書くことを考えてると毎回同じようなこと(文章を書けないということ)ばかり書いてしまうな
もうちょっと柔軟にいろいろ書きしたためていきたいんじゃがー

音瀬コタマ(ブルアカ)
「内気で現実ではあまりしゃべらないが、インターネットではよく喋る」性格らしい
しかし先生と打ち解けた後はけっこう流暢に喋っている 言葉の選び方も俗気が無く洒脱で、育ちの良いお嬢様という感じがして良い
盗聴とかネットストーカー気質な性格もかなり共感できる 儂も他人の裏垢とか愚痴垢をよく特定したり観察したりしてるので……
たぶん儂はこういう真っ直ぐでさっぱりとしたキャラが好きみたいじゃが、こういうキャラはあまりゲームシナリオ内でフューチャされることが無いので不遇な感じがする
無理にキャラを成長させなくとも、こういうキャラにはこういうキャラなりのリアリティの追求の仕方があると思うぜ

森博嗣は、作品を対象として使われる「世界観」という言葉にあまりピンと来ていないらしい(「この作品の世界観は~」てな感じで使われる世界観ね)
エッセイの中で「『世界観』が作者によって与えられるものなのか、読者が感じ取るものなのか?」という問いを立てて考えている 作品の世界観はいわば舞台設定みたいなものだから前者が当てはまるのではないか、と意見していて、けっこう面白かった
儂は、世界観は作者に与えられるものでも、読者が勝手に感じ取るものでもないような気がしている
作品世界が作者によって「創造される」ものとして捉えるのではなく、ありうる無数の可能性の中から作者によって「発見される」ものとして捉える そういう態度が表れた結果、「世界観」という言葉が作者と切り離して作品に使われるようになったのではないか、と予想している
主体をぼやかす感じがすごく日本らしい表現だと思う 「それって一体、誰の世界観なの?」と森博嗣が疑問に思うのもごもっともである
Amazon Audibleが無料キャンペーンをやっているので登録していろいろ聴きまくっている 森博嗣のエッセイもこれで聴いた
全然興味なかったラノベもこれで聴いている 異世界転生モノとか何が面白いんだ?と思ってたけど、面倒な世界観とかの説明をざっくり省いてキャラの魅力と展開でゴリ押しする感じが適当に聴く分にはちょうど良かった Twitterでよくバズっている安っぽい展開のラブコメ漫画と同じ感じで楽しめる
逆に重厚な世界観のSFとかは全然内容が頭に入ってこない ずっと読みたかった三体もAudibleで聴けたので聴いていたのだが、途中から何が何だか分からなくなって寝てしまった
二週間に一回くらいの頻度でキャラクターを描きたくなりペンタブを持ち出すのだが、その度に全く自分の思い通りに描けなくて落ち込んでいる
なんやかんや4年くらい同じようなペースでキャラクターを描こうとし続けているけど、たぶん殆ど上達していない(上達ではなく時間の経過による描き方の変化はあって、それを数年前の絵と比較してみるのはけっこうおもしろい)
まあ上手く書けなくてもオモロいっちゃオモロイんだけど、もうちょっと上手くなれば自由に色々描けてもっと楽しいだろうなとは思う
一時期、上達のコツみたいなものが無いかと思ってyoutubeとかのイラスト講座とかをいろいろ観ていたけど、最終的に学んだのは、簡単に上手くなる方法なんかなく(当たり前)、意識しながら量を描くしかないということだけだった

まんがサイエンスのあさりちゃん
今思い返してみると、儂が手癖で適当に描いたキャラクターは大体あさりちゃんがベースになっているような気がする
それくらい儂の中で強く印象付けられているキャラクターなんじゃ
当時小学生だった儂が初めてまんがサイエンスを読んだとき、巻末か何かに載っていた、DNAらせんモデルに体を絡みつかせたあさりちゃんのイラストを見て「え!!!!?!?!?!?!?!(エッチだけどエッチに該当する語彙を持ち合わせてないので驚くことしかできない)」と衝撃を受けたのを覚えている
その興奮から、小学校にまんがサイエンスを持ち込んで友達と共有し、お互いにエッチだと思う絵を取り上げて「すごくない???????????」みたいなことを言い合ったり、自由帳にあさりちゃんとあやめちゃんが出てくるコマを模写しまくって友達に見せたりしていた
この絶妙にふっくらとした線のデフォルメ加減が、多くの純情な男子小学生を狂わせていたことは間違いないだろう
To Heartのビジュアルファンブック、情報量が多くてとても良かったぜ
ゲーム内に登場した全スチルがコメント付きで紹介されていて、これだけでも大満足じゃ
他にもキャラクターの考案段階のラフとか、没スチル、没キャラクター案、販促用ポスターのイラスト、あずまきよひこ先生の漫画とかが載っていて、とにかく内容が盛りだくさんでスゴかった
ところでこういう「制作の裏側全部見せまっせ!!!」といった本って最近あまり見かけないな
儂の観測範囲が狭いのもあるのだろうけど
インターネット、特にツイッターとかで制作者が作品の制作過程を見せることはよくあるけど、公式の場でそれをオープンにしてるのはあまりない気がしている
公開するにしても、主に技術的な面が強調されていて、作品やキャラクターについて直接的に説明することはあまりないような
たとえば東方projectでは、「設定資料集」的な位置づけの本はいくつか出版されている
が、それはどれも「東方の世界(幻想郷)に存在するキャラクターが執筆した」という建前で作られたものになっている
つまり、外部である現実世界から作品について語るものではなく、あくまで**作品の内部から自発的に語る**、という形式になっていて、この違いは結構でかいんじゃ
なんでこういう風になってきたのかはなんとなく予想がついていて、儂たちのキャラクター、および作品への向き合い方が変わってきたからだと思っている

ブルーアーカイブではキャラクターと現実の関係性が上手く世界観に組み込まれていて、メタな読みができるようになっている
ブルアカの世界観では、
キャラクターの存在の本質は「**神秘**」と表現される
世界の外の脅威である「**色彩**」と神秘が接触すると、神秘が反転して「**恐怖**」になる
「恐怖」と「神秘」を併せ持つことで「**崇高**」に至ることができる
キャラクターと現実世界の関係性になぞらえて考えると、ここでいう「色彩」は、作品を外部から観測している儂自身のことを指していると言えるじゃろう
儂が作品に登場するキャラクターを観測しているとき、実際に観測しているのはキャラクターそのものではなく、髪型、見た目、性格といった特徴データと、それを表した図像の集合体に過ぎない
儂が見ているのはキャラクターそのものではなく、スクリーン上に表示されたキャラクターの性質に相関した記号なのである
つまり作品を眺める人間(**色彩**)は、作品世界に存在するとされるキャラクター(**神秘**)を直接認知することはできず、アーカイブ化された複製可能なデータ(**恐怖**)を通じてしか、キャラクターの存在を感じることができない
そういう空虚な関係がある

作品の外部からキャラクターについて語るとき、語っている対象はあくまで「恐怖」であって、「神秘」ではない
だからキャラクターについて作品外から語ってもあまり意味をなさない
キャラクターを有意味に語る唯一の方法は、新しく作品を創ってキャラクターをそこに存在させること
ブルアカ的に言えば、キャラクターを崇高に至らせることしかない