最近常に「オイオイオイオイオイ」みたいな心持ちでいる
オイオイオイオイと自分に発破をかけつつ風呂に入り、オイオイオイオイと自分を煽りながら就寝する 起きたら12時くらいで、オイオイオイオイと思いながら飯を食す
これは別に大学についてのあれこれとかに対するアレではなく
将来体が動かなくなって床の染みになることに対するアレではなく
アイドルマスターシンデレラガールズU149に対するアレではなく
儂が暇すぎるだけなんだが
ぬるめた 買った 読んだ 旨い
ニコニコ静画版の頃から好きでたまに読み返してる(古参アピ)
きらら文脈特有のヌルっとしたテンポ感がすごくて、すごい
一つ一つの描写は軽いんだけど、それがテンポよく積み重なっていつの間にか生きたキャラクターの存在感がつくられている
魔法か?魔法や
あと宇河弘樹の漫画も買った
良すぎた
読むの勿体なくてあんま読めてない
読むのが楽しみな本がすぐ傍にある状態が一番良い
なんならこのまま読まなくても良いかもしれない
こういう感覚を他人に話しても誰にも理解されなくて、悲しい

良すぎ
文章を書こうとするときのうわー全然文章になんねーみたいな感覚てみんな感じたことあるのだろうか
文章以前の、思考の断片のようなものがふっと頭に浮かぶことはしょっちゅうあるが、それは身体に生まれる感覚的な何かでしかなく、最初から言語的なものとして浮かんで来るわけではない
この感覚を他人に伝えようとしたり、それが一体どういうものなのかを自分で実感したり、後から振り返るために記録したりするには言語化という作業が必要になる 自分の語彙と思考の断片をマッチングして文章を組み立て、なるべく思考の機微を失わないように思考を文章に変換しなくてはならない
儂はこの作業が好きだけど、めちゃめちゃ苦手である 頭に何か浮かんでくる度に言語化しようとして、無理だ―となって諦める そして時間が経つとその思考が何だったのかを忘れてしまい、悲しくなる
高い解像度で思考を言語化できる/できていそうな人が「頭の良い」人だと思っていて、羨ましいぜ(思考の内容はさておき)
久しぶりに外に出て、近くの神社まで散歩をした 目的地のある散歩を散歩と呼ぶのはおかしい
なんか知らんが例大祭の日だったらしく、屋台と浴衣姿の人間で賑わっていた 参拝しようとしたが賽銭箱の前にめちゃめちゃ人が並んでいて、うわーと思ってやめた


ブルアカを起動したら誕生日を祝われた 嬉しっ
家族以外の人間に誕生日を祝われたことがなかったので新鮮じゃ そしてこういうところに新しさを感じてしまう自分が普通に悲しい
「お祝いの言葉は、どれだけ繰り返し言っても価値の下がらない、完璧な言葉の一つです」まじでそう
誕生日とか正月とかって、それ自体に何か意味があるわけではない
地球と太陽の位置関係が生まれた時と同じなこと自体に別に意味なんかないし、だから何?と言ってしまえばそれまでの話でしかない
だけど、そこに「誕生日」「目出度い」といった祝いの言葉をラベリングすることによって、意味の無さに蓋をしてスキップことができる スキップした先にあるのは「目出度さ」をコミュニティ内で共有し合うコミュニケーションである(儂には無いけど……)
現実的な意味を持つのは、誕生日の実質ではなく、それに伴うコミュニケーションでしかないから そういう無意味から意味を生み出すまじないとして「目出度い」とか「誕生日」とかいう概念が存在し続けてきたのだと思う
スクールランブルのアニメ版の続きが気になったので漫画版を読んだなり
一瞬だった 一瞬 漫画って一瞬で読み終わるので悲しい

涼宮ハルヒ
驚愕を最近読み返して、ハルヒってやっぱもう完結してるんやねと思った
完結はしてないけど(二年前に新刊出たし)、これから長編を書こうとするともうほぼ別物になるよねみたいな話
良くも悪くもハルヒシリーズの中核にいる涼宮ハルヒが「普通」になってしまったわけで、これ以上ハルヒ中心の物語を書こうとすると話が始まらずに空中分解してしまう
「驚愕」、というか「消失」の時点でハルヒはもう普通になっていて、そこではハルヒを取り巻く第三人物たちのあれこれを描くことでイベントが発生していたわけだが
それを二回やってしまった今これ以上の物語の展開の仕様がない
させようがないというか、そりゃできなくもないけど…それをやるか?みたいな
アニメが消失で終わったというのもまあキリいいしなぁ…と思う(驚愕はシャフトだったらアニメ化してたと思う)
インタビューとかを眺めた限り、新刊が出る可能性はなくはなさそうて感じやね

塚本天満
良い子
良い子で、そしてめちゃめちゃアホすぎる
このアホっぽさは折戸やすなのそれに近い ラブコメ時空の折戸やすな
エッチなのはいけないと思います!って言いそう 言ってた

柚鳥ナツ
パッと見でハルヒの佐々木みたいなキャラなのかなと思っていたけど、個別ストーリー見たらそうでもなかった
ブルアカはたぶん翻訳の関係で文章表現に独特な感じがある それがキャラクターのふわふわ感を演出しているような気がする
思ったよりもちゃんとふわふわ(?)したキャラクターだった
ブルアカにだぜ口調のかっこ賢い女の子とか出てこないかなー
森博嗣の小説で、脇役として出てきそうなキャラ 先生への恋愛感情とかがマジで無くて、じっと将来を見据えてるキャラとか出てきたら儂は嬉しい これはただの性癖
ホシノが一番近いかも 苗字も小鳥遊だし(?)
でもそもそも、ブルアカの生徒達が将来という概念を持ってなさそうなのがな
今のためだけに生きているような
今回は文章をマジで何も書き直さずに吐き散らしてみる
儂の文章は後から読み返すと妙な読みづらさがある
副詞を置く位置というか、順番というか、とにかく文章の構造構成がミョーに遠回りしていてまだるっこしさがある
まあそんなこたあどうでも良し
スクールランブル一期観終わった! めちゃ面白アニメだった
内容は本当に王道ラブコメといった感じで ラブ&コメディーだけどラブ:コメディーがだいたい1:3くらいの割合 四コマならコメディーコメディーラブコメディーみたいなテンポでラブが挟まれる
こういうラブコメを観てると本当にコメディー要素だけあればいいなと思う ラブ要素は物語の引きとしてとりあえず用意されましたみたいな感じがある
しかし実際はラブ要素がなければラブコメ特有のテンポが生まれずにふにゃっとした感じになってしまう
まあ儂はそういうふにゃっとした(というか、日常系の)作品も大好きだけども しかしラブ要素を挟み緊張と緩和の波を作り出すことでしか味わえない面白さもそりゃああるわけで
まあともかくオモロいアニメじゃった……(そわ)
二期も観るやね
ところで、一期最終話が実質ビューティフルドリーマーだった話するか?
最終話だけ少し異質な構成になっている 主要人物たちの関係性に進展があったと思えば「それは主人公の描く漫画の話でした」「それはヒロインがみていた夢なのでした」といった感じで妙にメタなオチによって振り出しに戻されてしまう
極めつきは、ED後ラストの烏丸大路と塚本天満の会話シーンじゃろう
*烏丸「やっと目を覚ましたね、塚本さん」*
*塚本「そっか……私、夢見てたんだ」*
*烏丸「大丈夫?」*
*塚本「ぅ、うん、でも……もう少しこうしててくれる?」*
*烏丸「いいよ」*
*塚本「烏丸くん」*
*烏丸「なに」*
*塚本「これも、夢かな」*
*烏丸「塚本さん。僕たちは夢の中にいる。青春という夢の季節に。*
* 夢はいつか醒めるけど、思い出はいつまでも輝き続けるんだよ」*
おい!!!
やっぱこれってビューティフルドリーマーやんけ!!!!(そんでもって、ブルーアーカイブ的であり、けものフレンズ的でもあり、あらゆるキャラクター主体の虚構作品の根底にあるテーマでもある)
それまでの経験が夢、作品、ゲーム等の虚構に過ぎなかったことをキャラクター達に自覚させ、そして、虚構から脱した今現在も、キャラクター達は虚構の中にあり続けているという事実を思わせる演出で締めくくられる 無限降下的な終わり方
この終わり方は、ある種の「終わりえない物語」に無理やり終わりを与える方法としてしばしば使われているような気がする
そしてこの演出は特に作者以外の人間によってなされることが多い(スクールランブルはたぶん違うけど!) 原作者ではなく外部の人間がビューティフルドリーマーを作り、儂の「うる星やつら」を終わらせてしまった事例のように
ビューティフルドリーマー以外でいえば、長門有希ちゃんの消失(涼宮ハルヒのスピンオフ)、ダンガンロンパとか、個人的には東方の某二次創作とか、とにかくそういう例を挙げれば枚挙にいとまがなし
こういうちょっと物語の最後の方に配置されるメタっぽい演出をみると、毎回ゲニャっとしたかんじになる
なんというか、虚構の世界からこっちの現実世界側の自分に視線が向けられてウヒャーみたいな感覚(?)に
さっき引用した烏丸と塚本の会話だって、その会話が誰から発されているのかはよくわからない あのシーンは明らかにそれまでの話の流れとは分断されているし、どのようなシチュエーションなのかがはっきりとしていない
こういうメタな演出では、その台詞が一体誰のものなのか、キャラクターのものなのか、虚構を作り上げている製作者のものなのか、作品を見ている自分のものなのか、曖昧になってよくわからなくなる
ともかく、それまでの作品の流れとは別の、どこか浮いたところから現実世界の自分に向けられた矢印のようなものを感じて、良いとか悪いとかではなく、ただただゲニャっとした感じになってしまうのじゃ
うーん