スクールランブル ビューティフルドリーマー

今回は文章をマジで何も書き直さずに吐き散らしてみる 

儂の文章は後から読み返すと妙な読みづらさがある

副詞を置く位置というか、順番というか、とにかく文章の構造構成がミョーに遠回りしていてまだるっこしさがある

まあそんなこたあどうでも良し

スクールランブル一期観終わった! めちゃ面白アニメだった

内容は本当に王道ラブコメといった感じで ラブ&コメディーだけどラブ:コメディーがだいたい1:3くらいの割合 四コマならコメディーコメディーラブコメディーみたいなテンポでラブが挟まれる

こういうラブコメを観てると本当にコメディー要素だけあればいいなと思う ラブ要素は物語の引きとしてとりあえず用意されましたみたいな感じがある 

しかし実際はラブ要素がなければラブコメ特有のテンポが生まれずにふにゃっとした感じになってしまう

まあ儂はそういうふにゃっとした(というか、日常系の)作品も大好きだけども しかしラブ要素を挟み緊張と緩和の波を作り出すことでしか味わえない面白さもそりゃああるわけで

まあともかくオモロいアニメじゃった……(そわ)

二期も観るやね

ところで、一期最終話が実質ビューティフルドリーマーだった話するか?

最終話だけ少し異質な構成になっている 主要人物たちの関係性に進展があったと思えば「それは主人公の描く漫画の話でした」「それはヒロインがみていた夢なのでした」といった感じで妙にメタなオチによって振り出しに戻されてしまう

極めつきは、ED後ラストの烏丸大路と塚本天満の会話シーンじゃろう

*烏丸「やっと目を覚ましたね、塚本さん」*

*塚本「そっか……私、夢見てたんだ」*

*烏丸「大丈夫?」*

*塚本「ぅ、うん、でも……もう少しこうしててくれる?」*

*烏丸「いいよ」*

*塚本「烏丸くん」*
*烏丸「なに」*
*塚本「これも、夢かな」*

*烏丸「塚本さん。僕たちは夢の中にいる。青春という夢の季節に。*
*   夢はいつか醒めるけど、思い出はいつまでも輝き続けるんだよ」*

おい!!!

やっぱこれってビューティフルドリーマーやんけ!!!!(そんでもって、ブルーアーカイブ的であり、けものフレンズ的でもあり、あらゆるキャラクター主体の虚構作品の根底にあるテーマでもある)

それまでの経験が夢、作品、ゲーム等の虚構に過ぎなかったことをキャラクター達に自覚させ、そして、虚構から脱した今現在も、キャラクター達は虚構の中にあり続けているという事実を思わせる演出で締めくくられる 無限降下的な終わり方

この終わり方は、ある種の「終わりえない物語」に無理やり終わりを与える方法としてしばしば使われているような気がする

そしてこの演出は特に作者以外の人間によってなされることが多い(スクールランブルはたぶん違うけど!) 原作者ではなく外部の人間がビューティフルドリーマーを作り、儂の「うる星やつら」を終わらせてしまった事例のように

ビューティフルドリーマー以外でいえば、長門有希ちゃんの消失(涼宮ハルヒのスピンオフ)、ダンガンロンパとか、個人的には東方の某二次創作とか、とにかくそういう例を挙げれば枚挙にいとまがなし

こういうちょっと物語の最後の方に配置されるメタっぽい演出をみると、毎回ゲニャっとしたかんじになる

なんというか、虚構の世界からこっちの現実世界側の自分に視線が向けられてウヒャーみたいな感覚(?)に

さっき引用した烏丸と塚本の会話だって、その会話が誰から発されているのかはよくわからない あのシーンは明らかにそれまでの話の流れとは分断されているし、どのようなシチュエーションなのかがはっきりとしていない

こういうメタな演出では、その台詞が一体誰のものなのか、キャラクターのものなのか、虚構を作り上げている製作者のものなのか、作品を見ている自分のものなのか、曖昧になってよくわからなくなる

ともかく、それまでの作品の流れとは別の、どこか浮いたところから現実世界の自分に向けられた矢印のようなものを感じて、良いとか悪いとかではなく、ただただゲニャっとした感じになってしまうのじゃ

うーん

げんしけんアニメ版を観るためにdアニメストアに登録していた

アマプラで見れなかった殆どのアニメが観れるようになっている

まだ観てないアニメがたくさんある もうこれだけでこれからの人生楽しみでしゃーなし 最高

ただしToHeartの一期は無く残念 配信してくれ

やがて君になる 観た

時間が滑らかに過ぎていく感じがけっこう独特に感じられて良かったな

最近はテンポよく時間が進んでいくやつばっかみていて、そういうアニメをあまりみてこなかったので

カットとカットの間に時間的、展開的な隔たりがなく 作品全体から一貫した連続性をひしひしと感じていた

わし、こういう滑らかな作品がかなり好みかもしれない

涼宮ハルヒのアニメはサムデイインザレインがめちゃくちゃ好きで、あずまんが大王のアニメ版も桜の回が一番印象に残っている

カットによって時間が編集されてる感のなさ、その世界のありのままの生活の流れを映像に写しとったような感じが好きなのかも

そういう滑らかな作品では、一つ一つのカットの密度が濃くなっている

キャラが静止、あるいはほんの少しだけ動いているだけのカットに、細かな感情、生命感、リアリティといったコンテクストをふんだんに詰め込むことができる

そういうあまり動きのない時間の使い方ってたぶんすごい贅沢で、制作の難易度も高いのでなかなか映像作品でお目にかかることはない 

だからその分そういうカットが多用されているとオッいいなと思う

なんかしらんがこれ書いてたら急に朝霧の巫女を読みたくなってきた

昔読もうとして忘れてたんだよな なんで思い出したんだろう

こういうふっと湧いた感情は無下にしない方が良い 儂は知ってるぜー

パソコンで日記(?)を書こうとするとどうも文章然とした文章を書こうとしてしまうきらいがある 

そもそも儂は整然とした文章をさらりと出力できるほど頭が良くないわけで、そこでウンウン唸って考えても結局出力されるのはどれも同じようなようわからん文章にしかならないわけで

そんなわけで、ためしに媒体を替えて、PCではなくスマホでこれを書いてみている スマホで文章を出力することってTwitter以外ではないから新鮮じゃ

スマホとPCでは、頭に浮かんだ文章をフィルタリングして出力する際に適用されるしきい値が違うような気がする スマホだと頭の中に浮かんだ断片をそのまま出力することに対して抵抗感があまり無い なんでだろう 

身体との近さに関係してるのかな 

手に持って顔に近づけてるとだんだんスマホが体の一部なんじゃないかと錯覚することがある スマホが自分の認識の内側に入り込んできたかのような感覚 パソコンに向かっている時はあまりこうならない 

パソコンで文章を書く時は、それが誰に見せるつもりのないものであっても、書く文章を自分の外にあるものだとして客観視してしまう そして、その文章のあまりのつまらなさ、内容の無さに勝手に怯んでしまう 自分の中だけで主観的に考えてる時は全くそんなこと考えないのに(頭の中に浮かんでくること自体を拒否することはできないので)

全部が自分の内側になって、客観視を排除した出力が常にできるようになれば、もうちょっと、色々と楽しくなりそうなんじゃがね

文章だけじゃなくて絵とか、趣味とか、人生とか(もう無理か)

「萌え」の根源

「萌え」とはずばり、**そのキャラクターと共鳴するような経験を私はしましたよ**、という事実を形容した表現だと思っている

たぶん他人に言ってもあまり共感されないと思うけど、ともかく儂はそういうふうに「萌え」の定義を育ててきた

「共鳴する」とは、作品中に登場するキャラクターの感情と、自分の感情が接続され、自他の境界が曖昧になり、一つになったかのように錯覚する現象のことを指す。(ブルアカのときに言ったあれに近い )

キャラクターと共鳴したときに儂の心臓は、キャラクターの感情によってふわっと持ち上げられたような感覚に陥る
そうして心臓がふわりと浮遊して、体全体の感覚が鈍くなるのを感じたとき、これがいわゆる「萌え」なのだな、と直感する
ジワリと胸の奥から何かがこみ上げてくるあの感覚を草木の芽生えに例えるとは、「萌え」を定着させたオタクはなかなか雅なセンスしておるのう 「言葉」と同じくらい風流な言葉だ

「萌え」に似たような言葉として「感動」が挙げられる

「感動」は作品、あるいはシチュエーションを対象として発生するが、「萌え」は主にキャラクターを対象として発生する
だから儂の中では「感動」と「萌え」は指向性の違いで区別されている

「萌え」と「推し」はどちらも、そのキャラクターの存在を最大限肯定しよう、という態度を表現している点で共通している

**現実に実在しないキャラクターという対象**に対して、感情を共鳴させたという経験を表明することによって**鏡写し的に存在を証明しよう**とするのが「萌え」で、
他人に布教することによって大勢の人間にキャラクターを認知させ、**キャラクターのイメージを他人と共有することで存在を獲得しよう**とする態度が「推し」という言葉に表れている(というか、現実のアイドルと同じように扱っている)
どちらもアプローチは違うが、実在しないキャラクターに対する最上級の言葉であることに違いはないじゃろう

「萌え」現象はどのような作品でも、作品のキャラクターと、自身の感受性の相性があってさえいれば発生する

ノベルゲー、ギャルゲーにおいては、図ってか図らいでか「萌え」現象が起こりやすいようにゲームシステムが設計されている
というか、「萌え」は、ギャルゲーをプレイしたオタク共が、頻繁に経験する共鳴現象に「萌え」という言葉をラベル付けすることによって定着した言葉なのだと思っている(ことの発端はともかく)
逆に、今「萌え」という言葉が使われなくなったのは、様々な理由があるとは思うが、特にギャルゲーが衰退したことの影響が大きかったと思う

こういうことを、げんしけんのアニメ版を一気見しながら考えていた(なぜ?)

げんしけん面白かった 原作漫画も読むぜ

あと一期の一話目でいきなりくじびきアンバランスが始まってびっくりした げんしけんは知らなかったけどくじびきアンバランスは前から知ってたので、プレーヤがバグったのかと思ったぜ

たまて

たまて

作業用BGMにこれをずっと聴いてたせいで頭がおかしくなってしまいました

脳内でずっとたまての声がぐるぐると再生され続けており、儂の頭は既に百地たまてというキャラクターに浸食されています tamate

誕生日も幼少期からギャルゲーをやっているという特徴も一致してるので、実は儂は百地たまての特性をコピーした同一対象なのかもしれない 

儂の前世は瓶詰妖精のたまちゃんだったのかもしれない 

こういう気色悪いことを考える前にまずはスロウスタートを観なければならない