げんしけんアニメ版を観るためにdアニメストアに登録していた
アマプラで見れなかった殆どのアニメが観れるようになっている
まだ観てないアニメがたくさんある もうこれだけでこれからの人生楽しみでしゃーなし 最高
ただしToHeartの一期は無く残念 配信してくれ
やがて君になる 観た
時間が滑らかに過ぎていく感じがけっこう独特に感じられて良かったな
最近はテンポよく時間が進んでいくやつばっかみていて、そういうアニメをあまりみてこなかったので
カットとカットの間に時間的、展開的な隔たりがなく 作品全体から一貫した連続性をひしひしと感じていた
わし、こういう滑らかな作品がかなり好みかもしれない
涼宮ハルヒのアニメはサムデイインザレインがめちゃくちゃ好きで、あずまんが大王のアニメ版も桜の回が一番印象に残っている
カットによって時間が編集されてる感のなさ、その世界のありのままの生活の流れを映像に写しとったような感じが好きなのかも
そういう滑らかな作品では、一つ一つのカットの密度が濃くなっている
キャラが静止、あるいはほんの少しだけ動いているだけのカットに、細かな感情、生命感、リアリティといったコンテクストをふんだんに詰め込むことができる
そういうあまり動きのない時間の使い方ってたぶんすごい贅沢で、制作の難易度も高いのでなかなか映像作品でお目にかかることはない
だからその分そういうカットが多用されているとオッいいなと思う
なんかしらんがこれ書いてたら急に朝霧の巫女を読みたくなってきた
昔読もうとして忘れてたんだよな なんで思い出したんだろう
こういうふっと湧いた感情は無下にしない方が良い 儂は知ってるぜー
パソコンで日記(?)を書こうとするとどうも文章然とした文章を書こうとしてしまうきらいがある
そもそも儂は整然とした文章をさらりと出力できるほど頭が良くないわけで、そこでウンウン唸って考えても結局出力されるのはどれも同じようなようわからん文章にしかならないわけで
そんなわけで、ためしに媒体を替えて、PCではなくスマホでこれを書いてみている スマホで文章を出力することってTwitter以外ではないから新鮮じゃ
スマホとPCでは、頭に浮かんだ文章をフィルタリングして出力する際に適用されるしきい値が違うような気がする スマホだと頭の中に浮かんだ断片をそのまま出力することに対して抵抗感があまり無い なんでだろう
身体との近さに関係してるのかな
手に持って顔に近づけてるとだんだんスマホが体の一部なんじゃないかと錯覚することがある スマホが自分の認識の内側に入り込んできたかのような感覚 パソコンに向かっている時はあまりこうならない
パソコンで文章を書く時は、それが誰に見せるつもりのないものであっても、書く文章を自分の外にあるものだとして客観視してしまう そして、その文章のあまりのつまらなさ、内容の無さに勝手に怯んでしまう 自分の中だけで主観的に考えてる時は全くそんなこと考えないのに(頭の中に浮かんでくること自体を拒否することはできないので)
全部が自分の内側になって、客観視を排除した出力が常にできるようになれば、もうちょっと、色々と楽しくなりそうなんじゃがね
文章だけじゃなくて絵とか、趣味とか、人生とか(もう無理か)
「萌え」とはずばり、**そのキャラクターと共鳴するような経験を私はしましたよ**、という事実を形容した表現だと思っている
たぶん他人に言ってもあまり共感されないと思うけど、ともかく儂はそういうふうに「萌え」の定義を育ててきた
「共鳴する」とは、作品中に登場するキャラクターの感情と、自分の感情が接続され、自他の境界が曖昧になり、一つになったかのように錯覚する現象のことを指す。(ブルアカのときに言ったあれに近い )
キャラクターと共鳴したときに儂の心臓は、キャラクターの感情によってふわっと持ち上げられたような感覚に陥る
そうして心臓がふわりと浮遊して、体全体の感覚が鈍くなるのを感じたとき、これがいわゆる「萌え」なのだな、と直感する
ジワリと胸の奥から何かがこみ上げてくるあの感覚を草木の芽生えに例えるとは、「萌え」を定着させたオタクはなかなか雅なセンスしておるのう 「言葉」と同じくらい風流な言葉だ
「萌え」に似たような言葉として「感動」が挙げられる
「感動」は作品、あるいはシチュエーションを対象として発生するが、「萌え」は主にキャラクターを対象として発生する
だから儂の中では「感動」と「萌え」は指向性の違いで区別されている
「萌え」と「推し」はどちらも、そのキャラクターの存在を最大限肯定しよう、という態度を表現している点で共通している
**現実に実在しないキャラクターという対象**に対して、感情を共鳴させたという経験を表明することによって**鏡写し的に存在を証明しよう**とするのが「萌え」で、
他人に布教することによって大勢の人間にキャラクターを認知させ、**キャラクターのイメージを他人と共有することで存在を獲得しよう**とする態度が「推し」という言葉に表れている(というか、現実のアイドルと同じように扱っている)
どちらもアプローチは違うが、実在しないキャラクターに対する最上級の言葉であることに違いはないじゃろう
「萌え」現象はどのような作品でも、作品のキャラクターと、自身の感受性の相性があってさえいれば発生する
ノベルゲー、ギャルゲーにおいては、図ってか図らいでか「萌え」現象が起こりやすいようにゲームシステムが設計されている
というか、「萌え」は、ギャルゲーをプレイしたオタク共が、頻繁に経験する共鳴現象に「萌え」という言葉をラベル付けすることによって定着した言葉なのだと思っている(ことの発端はともかく)
逆に、今「萌え」という言葉が使われなくなったのは、様々な理由があるとは思うが、特にギャルゲーが衰退したことの影響が大きかったと思う
こういうことを、げんしけんのアニメ版を一気見しながら考えていた(なぜ?)
げんしけん面白かった 原作漫画も読むぜ
あと一期の一話目でいきなりくじびきアンバランスが始まってびっくりした げんしけんは知らなかったけどくじびきアンバランスは前から知ってたので、プレーヤがバグったのかと思ったぜ

たまて
作業用BGMにこれをずっと聴いてたせいで頭がおかしくなってしまいました
脳内でずっとたまての声がぐるぐると再生され続けており、儂の頭は既に百地たまてというキャラクターに浸食されています tamate
誕生日も幼少期からギャルゲーをやっているという特徴も一致してるので、実は儂は百地たまての特性をコピーした同一対象なのかもしれない
儂の前世は瓶詰妖精のたまちゃんだったのかもしれない
こういう気色悪いことを考える前にまずはスロウスタートを観なければならない

諏訪に行った
諏訪と言えば東方風神録 いやまあその、そういや諏訪は聖地やったなーと漠然と思っただけで、今も思い入れが凄くあるわけではなかったんだけど 実際に行ってみたらなんかようわからんエモい心持ちになった
小学生の頃にお年玉で東方の同人誌を買い漁っていた、あの頃の熱量のかすかな残滓 思い出した 儂はあのときここにめちゃめちゃ来たかったんだよな、みたいな懐かしさ
本当に当たり前な事実なんだけど、作品の舞台になったとはいえ、そこにキャラクターが質量をもって実在していたわけではないんだよな
あのキャラクターはこの世界には実在しないんだな、と無粋ながらも思ってしまう そこにいたのはキャラクターなんかじゃなくただの現実の人間で、ここは人間の行為の帰結でしかなくて だから、儂にとって聖地巡礼はキャラクターが現実世界に入り込む余地などないという事実、不在性を確認する行為でもある
でも、存在を知らなければ不在を感じることすらできない その土地に勝手に結びつけられてしまった、儚くて実在もしないような何らかの対象を儂は知っているし、そうすると、やっぱりそれは我々とは別の形でいるんじゃないかと思う いないけど、そういう対象があることを逆説的に実感する、そんなよくわからんエモい感覚を感じている
この感覚は聖地巡礼でなくても、見慣れない場所であればどこでも感じ取ることができる その土地、その異界に何らかの文脈と不在性を勝手に感じて勝手に感傷に浸る そういう錯覚的な面白さが旅行にはある
儂がこういうことを意識するようになったのはたぶん東方の影響だろうな 東方の世界観は「実在しない者たちの楽園」てコンセプトが中心だったから
この曲、ずっと音MADでしか聴いたことなかったけど良かった
動画が良い