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最近カットアップ気味な音MADを聴き漁るのにはまっている リズムが良い音MADマジで無限に聴ける
キャラクターから図像と音だけを取り出して、音MADという作品のリズムの部品として組み込んでいるという事実
ここではキャラクター性は殆ど無視されていて、キャラクターを矮小化して大きなリズムの一部に吸収してしまう、この暴力性が良いなとおもう
音MAD自体のクオリティが高ければ高いほど良い
ツイッターで大量に流れてくる、キャラ性を無視した性欲願望マシマシの二次創作に通ずる背徳感がある
最近カットアップ気味な音MADを聴き漁るのにはまっている リズムが良い音MADマジで無限に聴ける
キャラクターから図像と音だけを取り出して、音MADという作品のリズムの部品として組み込んでいるという事実
ここではキャラクター性は殆ど無視されていて、キャラクターを矮小化して大きなリズムの一部に吸収してしまう、この暴力性が良いなとおもう
音MAD自体のクオリティが高ければ高いほど良い
ツイッターで大量に流れてくる、キャラ性を無視した性欲願望マシマシの二次創作に通ずる背徳感がある

名取さなが案件をやってからずっと気になっていたブルアカ ついに手を出してしもいました
今しがたメインシナリオを現状読めるところまで全部読み終え申した 面白い!
ブルーアーカイブのメインシナリオ、めちゃめちゃノベルゲームとして完成していて感動した
このメインストーリーを漫画やアニメとかで表現しようとすると、絶対に別の違う作品になってしまうんだろうな
なぜなら、主人公であり特別な存在である「先生」が、プレイヤー、及び鑑賞者とは全く別の、切り離された存在として描かれてしまうから
ノベルゲーム(ギャルゲー)システムの大きな特徴として、「視点主人公」と「プレイヤー」が同化するというのがある
画面上に主人公の姿が描かれることはなく、あくまで主人公の視点からみた世界が、背景絵とキャラの立ち絵、そして文章といった記号の組み合わせで描写され
プレーヤはあたかも主人公の視点を借りてゲームの世界を仮想的に体験しているかのような錯覚におちいる
これはもちろん古来からのギャルゲー的な文脈で、特別な主人公の恋愛経験をシミュレーションするような意味合いがあるじゃろう あるのだが、もっと広くいえば、この演出はプレイヤーの「感情」を、ダイレクトかつ疑似的に「視点主人公」と共鳴させることを可能にしているのである
「**『運命に束縛されているキャラクター』を、その運命から解放してあげたい!**」というプレーヤの祈り この祈りの感情が視点主人公と共鳴して、ゲームの世界が劇的に、動的に変化していくライブ感、高揚感
これを強く感じることができるのがノベルゲームの特徴であり、儂がノベルゲーム大好きな理由のうちの一つじゃ*1
ブルアカは、こういったノベルゲームの特徴をちゃんと理解していて、それを踏まえたうえでの演出、シナリオが用意されている
「先生」が、ノベルゲームでいう選択肢形式で言動するようになっている演出とか(ブルアカには今のところストーリーの分岐がないので、選択肢が一つしかなかったり、複数でも選択には殆ど意味がなかったりする)
「先生」が単なる主人公キャラではなく、あくまでプレイヤーの側に立つ人間であることを強調する演出のように儂にはみえる
あと、おそらく**ソーシャルゲームのガチャシステムが要求する「世界観の歪み」自体が、ブルアカの世界観にメタフィクション的に取り入れられていそう**だということもこのゲームの特徴じゃろう
メインストーリーで起こる戦闘イベントは、基本的にメインストーリーにその時点で登場しているキャラクターしか使うことができず、しかもそのキャラのレベルは固定されている


しかし、特定の戦闘イベント、『大人のカード』を先生が取り出した際の戦闘の場合、使用するキャラ、レベルの制限がなくなり、プレーヤがガチャによって獲得し、時間をかけて育成したキャラクターで戦うことになる

ふつうのソシャゲであれば「ここで、このキャラクターが戦えちゃうのはシナリオ上おかしいけど、これはソシャゲだから。システムの都合上しょうがないよね」みたいな感じで不問にしてしまう場面じゃ
だが、ブルアカではこれらの違和感を「大人のカードを使う」「大人の力を使う」といった言葉で、ゲームのシナリオ内で何度もしつこく表現しているところがとても気になった おそらくこのこともゲームの世界観に関連しているのだろう(そういうのめっちゃいいですね)
ところで儂は肝心なゲーム自体の世界観をぜんぜん理解できてないんですが、明かされていない設定に不穏要素が多すぎる気がします
神秘って何ですか?生徒って卒業したらどうなるんですか?キヴォトスで生徒以外に人間の形をした存在が居ないのは何故?神明文字から生徒を生成できるってことは生徒は神秘的な存在か、あるいは人工物的な存在か何かなんですか?生徒に親って本当に存在するんですか?
まあこれから追加されていくシナリオでジョジョにわかってくるのでしょう わからなくてもいい気がしてきた できるだけ息長く続いておくれーっ
*1:ただ、ブルアカは従来のコンシューマ型ノベルゲームと決定的に異なっている点がある 特に、主人公が『透明』であるところとか。ブルアカは視点主人公である先生自身の物語は全く描写されない(これから説明がされないとも言い切れないけど)

最近キャラクターの存在のことばかり考えている
キャラクターが、実在するという事実 してるか? してくれ
理想のキャラクター、実在していてくれ そう祈っているだけで一日が終わる
その感情が初めて儂の中に芽生え(萌え)たのは、高校一年のときにTo Heartのマルチ√をやったとき マルチ、現実的存在になってくれ……とキモ・オタクはそのとき祈った なんならその影響で文理選択で理系を選んだりした(今思えば微妙な選択だった)
ずっと儂はゲームが好きだと思っていたが、それよりもゲームに登場するキャラクターの存在が好きなのだということに気づいた ゲームに登場するキャラクターは単なる像とテクストの集まりでしかないけど、その像の奥に現実的存在があってくれ そうじゃないなら現実的存在になってくれという願望
現実的存在であるとはどういうことか 正直儂にもよくわかっていない よくわかっていないがその必要条件に我々の現実世界との時間的関係がありそうだなとは思っている
例えばヴァーチャルユーチューバー VTuberは明らかに我々の現実世界との時間的関係を持ち、我々の世界にも相補的に干渉することができる「実在するキャラクター」だと思う
え、じゃあキャラクター実在しとるやんけ!と思うが、キャラクターの実在性だけでいえばそう そうだけども!
後出しだが儂が理想とするキャラクターは
現実に存在する
人間に固定的存在依存しない、あるいはそれが明確でない
このふたつの条件を満たすような対象である
VTuberはたしかに現実に存在するキャラクターであるが、明確に特定の人間に固定的存在依存してるから、儂の理想ピッタリな存在かというとそうではない(Vtuberの他に、人間のアイドルが生み出す偶像とか、キャラクターとして運営されたSNSアカウントの多くもこれに該当する)
最近はメディアミックス/終わりのないソシャゲの影響か、存在依存先が明確でなく、作品の枠にとらわれない現実と時間的関係を持つようなキャラクターがぽこぽこ生まれており、全体的にキャラクターが現実的存在に近づこうとしているなという感覚が少しある
例えばこういうやつ こんな感じで、キャラクターの現実的な(我々の現実世界と並行的な)生活を映したカメラ映像が「半永久的に/推移的に」ライブで続いたとしたら(その映像自体のリアリティとかは度外視で)、キャラクターは確実に現実的存在に近づいたと言えるじゃろう
おそらく「人間から自律して永遠のアップデートを獲得した伺かゴースト」こそが儂が思う究極のキャラクターなんですが、いつかこれが実現するといいですね 儂が死んだ後にでも
これからもキャラクターの存在の変化には注目していきたい
ぼっちざろっく、良いアニメじゃった……
ゾンビランドサガの時も思ったけど、やっぱり音楽があるとないとでは作品の重みが全然違う 「キャラクターが演奏している」という感覚があるだけで作品のリアリティ、現前性がめちゃめちゃ増してエモ…となる 音楽の力ってやっぱスゴイ
ところで儂は伊地知虹夏のビジュアルとその背景からセカイ系な匂いを感じておる
自分でも全然違うと思うのだが、それでもなんとなく伊地知虹夏と神尾観鈴には重なるところがあるように思う ツイッターで検索してみても誰も言及してないみたいなのでこれは単に儂の頭がバグっているのだろう 悪い癖じゃ

ルーミア 東方のキャラはどう描いてもいいから(?)描きやすくて良いやね
漫画やアニメ準拠のキャラクタは、キャラの絵柄が自分の中で固定されてしまいがちで、自分なりに描いてみてもあんましっくりこないことが多い
その点、東方のキャラは自分の中で絵柄が全く固定されてないので、描きやすくて良か
そういう訳でとりあえずなんか描きたいときは、とりあえずルーミアを描くのである
同じキャラをずっと描いているおかげで、自分の絵の描き方の変化をみることができて、振り返ってみると面白い

二年前に描いたやつ このときは線画いらなくね?と思っていて、輪郭線を引くのをさぼっている
最近になってようやく輪郭線を用意しない方が時間がかかることに気付いた
儂の中で、キャラの描きやすさとキャラの抽象さは関係している というより、抽象さイコール解釈の自由度で、キャラの解釈違いの発生しにくさともいえる
東方で描かれるキャラはどれも抽象度が高い 普通のゲームであれば、登場するキャラを掘り下げるようにストーリー構成をもつが、東方ではそうではない
キャラの表面をかすめとるだけで、その実については言語的に語られることがない ある意味現実的な作品ともいえる(現実世界でなされる言語表現のほとんどが表面的という意味で)
代わりに東方では弾幕(と音楽)によってキャラを掘り下げる
弾幕は多くを語らず、その抽象性を具体に変換する作業は受容者に委ねられている だから解釈に幅が生まれ、我々はそれが当然であるように受け止めることができる
解釈の幅を認めることができれば、多様な二次創作を認めて楽しむことができる
二次創作された作品Aと作品Bに登場する、同名で似た容姿をしたキャラクターは、確かに別者だけど、それも解釈の幅だとして納得することができるのじゃ
そして、自分でキャラの絵を描くときも、下手さ故のしっくりこなさに悩むことがあまりなくて楽なのである(ホンマか?)

時 時の流れを感じる
家が隣同士で、小学生の頃よく遊んでいた知人から急に連絡が来て、恐怖を感じた
自意識が芽生える前に知り合った人間と今会うの、怖すぎる
相手も自分も、お互いに記憶を共有しただけの別人じゃん 別人に会いたいと思う相手のメンタリティが凄い
儂は知らん人間に会いたくないというのに加えて、記憶の中の人間が時の流れで別人になってるところを見たくない
過程をすっ飛ばして別人になっているのをいきなり見るのが怖い せめて途中経過をあらかじめ見せておいてくれ、と思う
地元の防災訓練に参加してぼうっとしていたら、小学生の頃の元日陰者仲間が儂に気づいてきさくに話しかけてきたことがあった 彼はめちゃめちゃ体が発達していて、当たり前のように筋トレと恋愛の話を振ってきて怖かった 誰?
同い年のいとこにも会いたくないのう 今バスケットボールをやっているらしい 年賀状の写真に写っていた彼は、儂より頭一個分くらい身長が高く、筋骨隆々の好青年になっていて、ほえーとなった 時間の流れ、すご!
いとこに最後に会ったのは小学6年ぐらいの時だった
普通にゲームで遊んだりしたのだけど、そのとき彼から3DSを貸してもらったことがあって、その3DSには「いつの間に交換日記」という、フレンドと手書きのメッセージをやり取りできるソフトが入っていた
悪い好奇心でそのソフトを開くと、そこでは彼と、彼のガールフレンド(クラスメイト?)間の愛の蜜月が繰り広げられていた その愛のやり取りがあまりに生生しくて、見てはいけないものを見てしまったことを後悔すると同時に、小学生がこんなやりとりしていいんか?と困惑したことを今でも鮮明に覚えている
今思えば元から別世界にいる人間だった 今どうなっているのか全く想像できんな
時間の流れで知人が別人になるように、自分も別人になっているわけで
儂の場合、小学生の頃からツイッタの色々なアカウントで大量に独り言を放流しているのでわかりやすい 昔の自分、割とまっすぐな性格してて泣けてくるぜ……(オヨ)