
顔から描き始めると途中でやる気がなくなってくる 顔は違和感に気づきやすいからついつい修正してしまいそこにエネルギーを吸われている気がする 逆にそれ以外はなんか変なことしかわからない
やる気は出ないが来週までに完成(自己満足)させる必要があるので悩ましい

顔から描き始めると途中でやる気がなくなってくる 顔は違和感に気づきやすいからついつい修正してしまいそこにエネルギーを吸われている気がする 逆にそれ以外はなんか変なことしかわからない
やる気は出ないが来週までに完成(自己満足)させる必要があるので悩ましい
面接をいくつか受けた
緊張しすぎて自分が何をしゃべったのかほとんど覚えてないぜ ガハハ
話の流れで学マスの誰が推しですか、という質問を投げられてめっちゃ動揺したことは覚えている
ゲームをプレイしていて『このキャラが推しだな』なんて思わなくないですか
推し、という概念をあまり理解してないかもしれない
自分の中には、好きなキャラクターに対して、存在していてくれ……と祈りこそすれ『推し』にはならないだろ、という感覚がある
こう書くと儂はキャラクターを人格や実在する人間というよりは神格として捉えているのかもしれん
こういうことを考えるたびにブルアカの世界観を思い起こしてしまう 儂はキャラを『生徒』として捉えて接する先生になれそうにない
似たような感覚を、『俺の嫁』というワードがギリ使われていた13年前にも感じていたな キャラを見て『俺の嫁』なんて感覚にならなくないか??と思っていた 「長門は俺の嫁」←どういうことなんだ????????
『わたしの推し』も『俺の嫁』も表現の仕方はともかく根源的には似たような感覚なんだろうなと思う
ユーフォニアムの一期を観た
昔チューバを吹いていた記憶があるので妙な懐かしさを感じながら見ていた
謎にトラック周りを行進しながら演奏させられるやつあったな〜
フレームの動かし方がハルヒのそれと似ていて、ちょっと見ただけでこれが京アニか!!!!!ってテンションが上がるので京アニはすごい
京アニ作品には京アニにしかない独特の運動性がある
よくわからないけど
よくわかる必要もなく
癖になるぜ
ツイッタのいいね欄見れなくなったのヤバ
儂の一大娯楽が失われてしまった
儂が中学生の頃からやってたファボ欄から全然知らん人間の性格環境を想像するやつができなくなってしもた ツイッタが、おすすめされる美少女イラストとオモロい投稿を眺めるだけのありきたりなサイトになり下がってしまった…………
というか、これでファボとブックマークを区別する意味なくなったのでは 何のためにブックマーク機能付けたんだ カス
なんか良いアニメないかなと思って色々みている
最近観たのはブルアカ、16bit、フリーレン、ダンジョン飯、ちいかわ、ユーフォ、ガルクラ、あとゲームやったついででホワイトアルバム2
ホワイトアルバム2のアニメ版は思ったより面白かったな
ノベルゲーだとカットされるであろう場面をシームレスにつなぐために色々な改変がなされていて面白い ノベルゲーの私的な感じは薄れるけどその分客観的なリアリティが追求されて、なるほどね〜と納得できる感じが良かった
あと当たり前だけど、主人公のビジュアルがうごいてるのも良かった ノベルゲの主人公がキャラクターになって動いてるだけでなんか感動してしまう
ガルクラは4話くらいまで見たけど今だにノリについていけてない ついていけなさすぎて今一番印象に残っている
え???みたいな突っかかりがある場面が多くてその都度思わず一時停止してしまい時間がかかる
肉まんにソースをかけることよりも、そのソースがかかった部分を躊躇なく手で触ってる点に対して戸惑いを感じる
あと主人公の歌が最初から完成されすぎてて、歌のシーンの度に「うま……」で感想が終わる
3Dモデルがぐいぐい動いてるとどうしてもソシャゲっぽさを感じてしまう この3Dモデルはソシャゲでも使いまわせるな、みたいなことを考えながら観ている
ラブライブを儂は見たことがないけど、なんとなくガルクラはラブライブにかなり近いイメージがある(かなり偏見)
調べたら脚本の人ががっつりラブライブの脚本の人だった よりもいも同じ人が脚本やってたらしく、かなり納得
今だにこのノリにはついていけてないけど、ついていけない感じが逆に楽しくもあるので最後まで観たいと思っております アニメ最高〜!!!
ガルクラと似たアニメでヨルクラもあるらしい そっちも時間があればみたいぜ

white album2、とりあえず全部の√といくつかのデジタルノベルを見たぜ
小木曽雪菜の得体の知れないパワーによって物語がぐいぐい動いてく感じが良かったな
やっぱ小木曾雪菜と冬馬かずさの関係って羽川翼と戦場ヶ原ひたぎの関係性に似ているような

↑こういうことについて考えていた
キャラやある程度のルールを前提としたとき、どのような物語が構築されるのかは創作者によっていくらでも変わり得る 作品として提供される②には属人性がある
儂はずっと属人性のないキャラクターがあればいいのに、と思っているので、①であり②でない他の世界の集合について考えてしまう
だから、ただ一つの世界だけでなくいくつかの可能性の世界を提供してくれるノベルゲームをプレイすると毎回「いいな」と思う 真のトゥルーエンドはこれです、みたいな段取りがされていなければなお良い キャラクターの物語についての俗人性が緩和されているように錯覚できるから
ゲームに対して「この√は気に入らない、この√のこのキャラは理解できない」みたいな感想を見るたびに自分のことを考えて勝手にいたたまれなくなる
ゲームのように現実世界の自分のいる世界のifがすぐ隣に示されて、外部から比較されたとしたら、今自分がここにいる世界は間違いなくハズレの世界に違いないだろうから
自分の存在を前提として、その先の展開の可能性を客観的に比べた時に、側から見ればあり得ない選択を連発してきたに違いないから
現実世界の隣には、もっと良いファインチューニングされた世界があるに違いなくて、そういう隣接する世界と比較してしまう視点自体にやるせなさを感じてしまう
感想を自分自身と切り離すことは儂にはどうしてもな抵抗がある 自分から発射される言葉とか感想が全部自分に跳ね返ってくるんじゃないかと思ってしまって思えない 人を呪わば穴二つってこういうことなのか
作品というフレームを通じてキャラクターを眺めているとき、そのキャラクターは絶対に舞台の上にいて、舞台外のただの鑑賞者である自分とは決定的に断絶した立場にある(彼女たちは作品のキャラクターである以上、『舞台少女』であることが運命付けられており、我々はキリンである)
鑑賞者である儂は舞台を通じてキャラの断片的で表面的な記号を知ることはできるが、キャラクターの生身自体については直接知ることができない キャラクターを直接知るためには、自分が舞台の上に立って、同じ立場に立って実際に触れるしか方法がない
これが自分と同じ世界の人間ならともかく、自分と異なるフィクションのノベルゲーム作品であればそのキャラクターと同じ舞台に立つことは物理的に不可能なわけで、そこをどうするか
プレイヤーに、どうやってキャラクターと同じ舞台に立ったと幻想させるかがノベルゲームの究極的な命題だと勝手に思っている
そういうことをホワイトアルバム2の千晶√をやってからぐるぐると考えている いやずっと前から考えていることではあるけど
学園アイドルマスターをプレイしている
ウマ娘をものすごく意識してる感じがしてすごかった
とにかくテンポよくプレイできるし、セリフが洗練されていて一瞬で読めるし、キャラがどういうキャラなのかもスッと理解できる 集会プレイに対するシナリオレベルでの理由づけもちゃんとされていて良かった
あと視点主人公であるプロデューサが翻訳っぽい硬い口調で喋っててすごかった
この視点主人公であるプロデューサーは透明な主人公の系譜を継いでいる 自分の来歴とか、価値観とか、辿ってきた物語とかをプレイヤーに一切関知させない、絶対にプレイヤーのノイズにさせないという作り手側の気概を感じる もちろん恋愛とか性欲とかそういう要素も完全に(?)排除されている
コンシューマのノベルゲームと、ブルアカとかを筆頭にしたニュータイプソシャゲの一番の違いはここにあるよな ブルアカをコンシューマノベルゲーにしようと思ったら「先生」は絶対に視点主人公にはならない ノベルゲームは主人公とキャラクターの物語を語るシステムだから、独自の物語を持たない先生を主人公にする意味がない
何が言いたいかというと、生徒を主人公にしたブルアカのノベルゲームがやりたいです